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2025年05月29日 更新

ぼっちを救った風船の話。アニメ「わたモテ」の『そこらの着ぐるみの風船と私』の感動をお伝えしよう

着ぐるみがくれたひとつの愛の形

皆様は『そこらの着ぐるみの風船と私』という楽曲をご存知だろうか。
この楽曲はとあるアニメの特殊エンディングで流れたエンディング楽曲である。
誤解されることを前提にはっきり言う。
それはもう中々にひどい内容の作品である。

しかし、そんな色んな意味でひどいこのアニメ作品のラスト手前の11話に仕込まれた楽曲は、このアニメを一気に名作に昇格させてしまった。

先に言っておこう。
これは、この曲は、紛れもなく名曲であると。

何のアニメの曲?

さて、ひどいアニメと言ってしまって申し訳ありませんでした。
本当はそんなこと思ってません。……いえ、でも多分作品を見た方なら「ひどい」の意味を理解してもらえるはず。

……ということで。

皆様は『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』というアニメをご存知だろうか。
冒頭であえて名前を伏せたアニメは『わたモテ』という名称で、今もなお漫画の連載が続く素晴らしいギャグ漫画だ。

この作品のあらすじを簡単にご説明すると、主人公である女子高生<黒木智子>は、普通の高校で学園生活を過ごしていた。黒木智子<愛称・もこっち>はクラスの人達からの人望も厚く、ひとたびギャグを放てば、ドッヒャーと笑いが起こる人気者……ではない。彼女は高校生デビューに大失敗したぼっちである。

新しいクラスでの自己紹介では、ウケると思ってどーんとうち放ったギャグがドン滑りだし、陽キャを見ればチャラ男とバカ女どもと見下すし、いちいち嫌味なことを言うから弟からは鬱陶しがられるし、たまたま授業中に出現したゴキブリを、退治したら一躍クラスの人気者になれる!とふんだもこっちがゴキブリを足で思いっきり踏み出すがクラスメイトからは気味悪がられる。

心のなかでは意気揚々と毒舌をまいているが、実際にはクラスメイトや先生、コンビニの店員と話すのもままならない。(ただし本人は挨拶できた!、店員に対してはイケメンと話せた!と思っているくらいには、自己肯定感は高い)

もこっちの妄想と現実の反応はいつも乖離しており、もこっちの思いと現実のズレを感じずにはいられない……。このズレこそがボッチの要因になっており、そして社会生活で生きづらいと思っている読者なら、思わず共感してしまう大事な要素なのだ。

この作品は、見せかけのぼっちが描かれているのではない。
あなたが思うよりも本格的でガチのぼっち生活が描かれている。

アニメでは卑屈で妄想しがちなぼっちの少女の物語を中心に話が進んでいく。
しかし、アニメ11話では他の話とは少し毛色が変わる。

10話以前ではギャグ描写でぼっち生活が描かれているが、11話ではもこっちが抱える心の中の虚無感や孤独感がシリアス気味にピックアップされている。

そんなもこっちの孤独を(ほんのわずかとは言えど)救った一つの風船の話が描かれる。

もこっちの孤独を救った「着ぐるみと風船」

いろいろな妄想と謎の自信で高校デビューを果たそうとしたが、うまくいかずに結局ぼっちになったもこっち。

そんなぼっちな高校1年生として毎日を過ごしていたが、そのうちぼっちには厳しい文化祭が訪れる。
準備ではクラスのみんなで協力して出し物の制作を行ったり、文化祭当日は友達といっしょに色々なクラスの出し物を見て回る。
ぼっちには血反吐が出るほど、苦しくて逃げたくなるようなイベントだ。

しかし、意外なことに、もこっちはこの文化祭をエンジョイした。
もこっちとは別の学校に進学した中学時代の友達<成瀬優>(通称ゆうちゃん)を文化祭に呼んで、一緒に様々な出し物を見て回った。
もこっちは普段の寂しさからなのか、温もりを求めてゆうちゃんにやたら抱きしめてもらおうと画策する。が、計画は結局うまくいかずにことごとく失敗に終わった。

とはいえど、もこっちは友達といっしょに文化祭を回るだけで楽しいんだ、ということに気づく。だが楽しさに気づいたからこそ、彼女の心は寂しさに満ちていった。

ゆうちゃんと一緒に文化祭を回っているのに、なぜか心の距離は遠く感じる。
中学時代に仲良かったゆうちゃんは今、自分とは違う学校で違う人生を生きている。もちろん今でも仲は良い。しかし自分以外の人たちと時間を過ごす現在のゆうちゃんは、もこっちにとってはどこか遠くの存在に感じたのかもしれない。

そして、文化祭の終わり際。ゆうちゃんは自らの高校の友達に呼ばれて先に帰っていった。
もこっちはまた、ひとりになった。

夕暮れの学校の中でひとり座り込んだもこっちをある人物が見つけた。
その人物はもこっちの前に立ちはだかる。
ピンクのくまのような着ぐるみを着て。

そして着ぐるみはもこっちに風船を渡す。
着ぐるみはその風船を受け取ろうとしたもこっちをそのまま引っ張り優しく抱きしめた。

そしてその瞬間、『そこらの着ぐるみの風船と私』が流れ始める。

もこっちがこの文化祭の中で満たしたかった、でも満たされなかった愛への渇望のようなものや、孤独への寂しさを、着ぐるみと風船が拭い去った。

一日の寂しさも悲しさも喜びも全部、着ぐるみにもらった風船につめこんで、もこっちは満たされながらひとりで帰路につく。
このときもまた彼女はひとりだが、きっと寂しさを感じなかったのではないかと思う。
ぼっちなのに、心は優しさと愛で満たされていんじゃないかと。

『そこらの着ぐるみの風船と私』の素晴らしさ

さて、この曲の素晴らしさを知るには11話の流れと普段のもこっちを知っていただく必要があったため長々と説明してしまいました。

ここからはこの曲の素晴らしいポイントをご紹介していきます。
このポイントを知っていただき、よりこの曲の良さに触れていただけたらと思います。

歌詞が泣ける

普段他人に対して皮肉や歪んだ見方をしているもこっち。
そんなもこっちの心の奥底に隠していた寂しさを、着ぐるみと風船が拭い去った。
この曲の歌詞は、風船を受け取った後のもこっちの心情を補完するかのように見事に描かれている。アニメや漫画では描ききれなかった心の中の満足感を(このアニメの曲とは思えないほど)、きれいに丁寧に歌詞で表現されているのだ。

私がこの歌詞の一番好きなところは、あんなに他人に対して歪んだことを考えているのにもかかわらず、サビで歌われる「いつかであった全ての風船たちにありがとうと言えるように」というところだ。
いつか胸の中に隠し持った感謝の気持ちをちゃんと言葉にして伝えたい、と意思表示をしているのだ。これはもこっちの成長以外のなにものでもない。
泣ける。

余談だが、この着ぐるみと風船のエピソードは漫画で続きが描かれている。
そちらのエピソードも思わず涙が出てしまうようなものになっているのでぜひ興味が出た方は漫画も見てみてほしい。

二人で4人分を歌うハーモニーが美しい

この曲のボーカルは「Velvet,KodhyとVelvet,Kodhyとμとμ」という人たちが歌っている。
ちょっと何言っているかよくわからないと思うが、そのまんまの意味である。

Velvet,Kodhyさんとμさんの二人が、一人二役を演じて合計4人分で歌唱しているのだ。
だから「Velvet,KodhyとVelvet,Kodhyとμとμ」なのだ。

最初聴いたとき、声優さんが歌っていると思ったのだがどうやらお二人共声優ではなくボーカリストの方のようだ。大人っぽい声、子供っぽい声など声の使い分けを見事にこなしており、中々面白い編成をしていると感じたものだった。

4つのボーカルラインが主旋律とハモリを交代しながら、楽しくこの曲を聞かせてくれる。ぜひハーモニーにも耳を傾けて聴いてみてほしい。

噛めば噛むほど味が出てくるように、聞けば聞くほど新鮮味が出てくるはずだ。

ぜひ曲といっしょに漫画もアニメも見てください

今回ご紹介した『そこらの着ぐるみの風船と私』は、楽曲だけでも聞き心地は良いが、原作のストーリーを知っているとより深みを増す曲となっている。

また、アニメで放映したエピソードまでだともこっちが喪女(もてない女)でぼっちとして描かれているところで終わるが、原作ではその後様々な話を経てもこっちの学園生活が徐々に変わっていく様子が描かれている。
アニメ放映後にも様々なストーリー展開で楽しませてくれるため原作を読むことも強くおすすめしたい。

長々とオタクの長話にお付き合いいただきありがとうございました。
また次回の『お伝えしよう』シリーズでお会いしましょう。

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