社会に役立つことを強いられて、必要ないと思われたら社会からポイっと見放される。そしてそんな自分がこの世界に必要がないと自己嫌悪に陥り、自信をなくす。そうして夢も希望もなくして、やる気までもなくして生きる意味を失う。
赤ん坊の頃は何も知らない。何も求められない。
だけど成長するにつれ、誰かの目を気にするようになり、社会に出れば結果を出すことを強いられる。そしてたいてい自分の価値観は徐々に心の奥底にしまい込んでしまい、誰かの命令と誰かの意思決定を遂行するために生きるようになる。
ある日、このままでいいのか?と自分自身に問いかけるのに、毎朝起きればしんどい場所で日常を生きることから逃れられない。
これも人生、それも人生。そうしていつの間にか自分の幸せというものを一般的なステレオタイプに当てはめてこの世を去る。
そんな苦しい人生を送っているなら、「誰かのために生きない」と決めて生きてみるのもありなんじゃないだろうか、というお話です。
誰かのために生きない。自分のために生きる。
社会のために、恋人のために、親のために、誰かのために……
そうやって生きていると、いつの間にか自分自身の気持ちを押し込めて、電池切れになる日が来てしまう。「自分って何のために生きていたんだっけ」とか思い出す。”他者のために”が行き過ぎていると、他者に裏切られたとき、他者の望む結果を自分自身が出せなかったときなどに自分という存在価値さえ蔑んでしまう人もいる。
そんな思いをして消えてしまいたくなるくらいなら、いっそのこと「自分のため」に人生を生きると良い。自分自身を喜ばせるために生きるということだ。
それはつまり自分が本当にやりたいこと、学びたいこと、見たいこと、体験したいこと、成し遂げたいことを徹底的に追求し、それを自分に与えること。
こうやって自分自身が欲しがっているものを自分が自分に与えていると、喜ぶのは自分なのだ。自分が喜んでいると、人生って超楽しいはずだ。
偉人たちもきっと
この世界で偉大な功績を残した人物たちもまた自分自身の成し遂げたいことを大切にしていたいように思える。つまり自分が持っていた夢や野望、欲望、希望などを実現化したんじゃないかと。
飛行機を生み出すのは、人類共通の夢だっただろうか。スマートフォンを生み出すのは人類が望んだことだろうか。車も、パソコンも、ゲームも。
私は人類が望んだこと、というよりは、それを生み出した人たちの夢だったのだと思っている。
彼らは自分の中にあった空想を現実にした。自分自信が欲しかったもの、自分自身が見たかった光景を実現させて、自分自身を喜ばせたのではないかと思う。
ただ……もちろんすべての偉人がそうだったわけではないとは思う。
荒れ果てた時代の中で誰かのために望まぬ兵器を作った者もいるかも知れない。そうして作ったものが後世で一般的に便利な道具として使われている物もあるだろう。その場合はきっと開発者は自分が喜ぶものを作っていない。しかし、それを作れと命じた人たちは喜んでいたかもしれない。
自分のためが、誰かのために
大抵の場合、自分に余裕がなければ他人にかまうような余力など残されていない。自分が生活をしていくのに精一杯になって自分の殻に閉じこもる。
自分をおろそかにして他人のためになんてやっていたら、それこそ自分の生きる活力まですり減らす可能性すらある。
だから逆に言えば、自分に余裕がないときほど自分がやりたいこと、自分が欲しいもの、自分が成し遂げたいこと。
それらを追求して、自分に与えて、自分自身を喜ばせる必要がある。
そうして自分をたくさん喜ばせると、少しづつ気力が回復してくる。もっともっとやりたいことも成し遂げたいことも見えてくる。
不思議なことに自分が楽しくてやっていることが、他人の役に立つことがある。
自分が楽しいから誰かの欲しいものを作ってあげていたり、自分が楽しいからお手伝いしていたり。
そうすると他人から感謝される。でも誰かのために生きていたときとは違う光景が見えてくる。
感謝されるのは嬉しい。でも自分が楽しくてやっているだけだからお礼なんて……とすら思えてくる。
ある意味では自己中であり、利他的ではなく利己的になるのかもしれない。でも結果的に誰かの役に立つのであれば客観的に見れば利他的になる。
それで悪いのか?それでいいんじゃないのか?
だから、まずは自分を喜ばせるところから始めよう。自分のために自分の人生を生きてみる。
そして副作用のように、自分のやっていたことが他人のためになっていたらラッキー!って思えば良い。それか自分に余裕ができて他人に気を配れるようになったらそのときに他人を喜ばせればいいのだ。
余談
私がここまで話した「誰かのためではなく、自分のために生きる」という生き方は正解ではない。一つの生き方のモデルでありケースだ。だから、これを正解だなんて思ってほしくもないし、思う必要もない。ただ、少しだけ参考にするのはありだろうし、この考え方を派生させて自分なりの生き方の正解を見つけるのが正しいモデルの使い方だろう。
そして、「自分自身を喜ばせる」の意味は決して自分のことだけ考えて、他人に迷惑をかけて生きていってもいいということではない。犯罪はもちろんしてはいけないし、他人を尊重することは大切なことだ。その上で自分という存在を、自分の心が望む方向をよく知り、それを実現させて、自分自身を喜ばそう、という話なのでお間違えないように。
そして最後に。
私は日本という国で生まれ育った。現状は戦争をしていない国だ。
だからこんな話ができる。
自分のために生きたくても、自分の自由意志や人権などがないような状況だって存在する。だからこのお話は平和な世界でなければ到底かなわない話なのかもしれない。
戦時中の国からしたら、まるで平和ボケしたような考え方かもしれない。
しかし、この国にはこの国の問題があり、沢山の人が問題を抱え、生きることを苦に思う人々がたくさんいる。だから今回、本来は無数にある生き方の、ひとつの考え方を書いてみた。
そしてこの記事も別に誰かのために書こうという趣旨で書き始めてはいない。
自分のために書いた。
冷めた書き方になるが、私にとってはこういう文章を書いているときが楽しいので、書いているだけである。メモ書きのように。
それでもまぁ誰かのためになっていたなら嬉しいなとは思います。